かまどに火をくべる。
ちろちろ燃える炎を見つめながら、むかし おじいさんは柴を刈り、
おばあさんは川へ洗濯に行ったことを思い出す。
なんと無駄のない動き。思えば灯りも燃料も、望めばすぐ身近にあるものから得ることはできていた。
どうして私たちは遠い外国までゆき資源をあさり、身の回りの草木はゴミに出すようになってしまったのだろう。
草や木は、暖にも灯りにも煮炊きの燃料にもなっていたのに。
それを処分するためにさえ遠い外国から資源を買いに行くようになってしまったのだろう。
水栓をひねれば水が出る、スイッチを押せば火が燃える。
母はむかし、起きれば井戸の水を汲みかまどに火をくべていた。
かまどに火を入れる、それだけのことさえ、要領が悪く不器用な自分はことさら時間がかかる。
時を、買ったのだろう、私たちは。
歩けば一日かかる距離を、飛んでゆきたく思ったのだろう。
そして思う。時を縮めるという行為には恐ろしく莫大なエネルギーを必要とするのだと。
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