799年、ひとりのインド人の青年が三河の浜辺に漂着しました。
彼は携えていた一弦の琴を弾き、持ち物を売って家を建て、この国に住み着きました。
日本に初めて『綿』をもたらしたのは、この青年であったと伝えられています。
彼がもたらした綿の種は、紀伊・淡路・丹波・讃岐・伊予・土佐・太宰府に植えられました。
ただ、日本の気候にはあわなかったらしく、ほとんどが絶えてしまったようです。
綿花は乾季のカラリとした気候の中で実を著けます。
一年中多湿な気候で、また当時の地理的にも、なかなか難しかったのでしょうか、
この国に定着することはありませんでした。
状況がかわったのは戦国時代。
他国としのぎを削る中、麻よりも弾力性にすぐれ擦り切れにくい、綿の需要が高まりました。
中国においても、東アジアに適応した綿の品種改良に成功したらしく、 それが日本にもたらされました。
やがて開かれた江戸幕府は、綿の栽培を奨励し、綿は会津以北を除く日本の各地で作られるようになりました。
江戸幕府の農政事業と、綿の普及は、人口の増大を後押ししました。
しかし明治に入ると、綿に対する関税が撤廃され、 安価な綿が大量に流入し、日本の綿は姿を消して行きました。 あれほど苦労して日本に根付かせたのに今はもう、誰の身を包むこともありません。
古老はふつうに『わた』と呼んでいましたが、輸入された洋綿が当たり前になり、
それと区別して、日本の綿は『和綿』と今は呼ばれています
ところで、1200年前にインドの青年がもたらした綿の種ですが、一説には絶えてしまったと言われております。
でも、こんな言い伝えがあります。
三河の国に住み着いたその青年は、その土地で、親しく栽培の方法を教えました。
土地の人々は、種を絶やさないよう、大切に栽培の法を伝えました。
今、その地に伝わる小ぶりの綿が、インドの青年がもたらした綿の末裔だと言われているそうです。
青年が住んだ所には、現在『天竹神社(てんじくじんじゃ)』が建っております。
その神社に『宝壺』とよばれる古い甕が伝わっており、近世に入りその甕をあけてみたところ、
その中には、古い古い綿の種が大切に収められていたそうです。
コメントをお書きください
鎌田充彦 (土曜日, 15 5月 2021 19:14)
はじめまして。
三重県津市で、10年程前から綿花栽培をおこなっています。
洋綿(超メインに和綿も栽培しています。
すべての行程で、外部には出さずに糸にすることを目指しています。
今年は、4月から講座「綿花栽培からのモノづくり」を1年間とおして、
毎月2~3回開催しています。
来年の3月には、綿花の神様、近藤健一さんをお迎えして、
綿花栽培交流会を三重県津市にておこなうつもりです。
まだまだわからないことも多く、いろいろ教えてください。
よろしくお願いします。
石川博之 伸子 (水曜日, 29 12月 2021 04:26)
長野県下高井郡木島平村で7~8年前から、丹波布をやっている知人からもらった棉の種を栽培、糸紡ぎ、染色、織りを、手探りでやっています。目指しているのは主人の作務衣をつくろうかなと。糸は主人、染め織りは私がやっています。よい糸がどんなものかわからず、経糸は、緯糸は、筬は…と悩みながらの毎日です。
いろいろ教えていただけたら幸いです。