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麻のお茶会、開催しました。

文字も残らない古い時代から、江戸時代に綿が普及するまで、

日本の長い歴史の中、圧倒的大多数の人々の身を包んできたのは、麻ー『大麻』でした。

 

千葉県君津市で染織伝承館『布衣風衣』を営む渡辺ご夫妻は、

失われてゆく日本の手仕事を何とか次世代に託したいという思いから

長年にわたり各地の日本の染織を取材し記録に取り、伝承活動をされています。

 

会津以北は、綿を育てるのが難しかったため、

東北地方では、自家用に麻を栽培し、糸を作り、織る村が

数十年前までありました。

越後上布などの材料になる『苧麻』は、換金作物として

諸藩は奨励したようです。

今、『麻』と言えば『苧麻』と『亜麻』を指します。

 

でも、土地の人たちが『麻』と呼んでいたのは、大麻でした

これは、藩に納めるためではなく、

自分や家族の身を包む、日々の着衣として作っていました。

 

渡辺ご夫妻は、おそらくその最後の時代のおばあさんにお願いし、

麻の種まきから織るまでを映像に収めました。

 

今はもう、どこにもない風景です。

その記録とともにお話頂きました。

 

麻の苧は、金色です。

この繊維をひたすら割き、ひたすら績(う)み、

糸にします。

何千メートルも、何万メートルも。

ひたすら手で、糸をつなげて行きます。

麻の糸を割いてつなげる作業を『績む』と言います。

『績む』作業と『紡ぐ』作業、ふたつあわせて

『紡績』です。

 

 

麻の糸。写真は布衣風衣にて撮影したものです。

 

麻の布の他に、いろんな古布を持ってきてくださいました。

上ふたつは大麻、

下の縞は芭蕉布。

 

これは『しな布』の米袋。しなの木の繊維で織られています。

強度を持たせるため、バイヤスに縫われています。

古い生活道具としての布は、バイヤス縫いになっているものがよくあるそうです。

そういえば、手ぬぐいを利用した『あずま袋』もそうですね。

 

 

上から、しなの米袋、祭礼に使われた馬の腹がけ、布団側生地。

 

対馬で出たという麻(大麻)の筒そで。

場所柄でしょうか、朝鮮半島の上衣に似ています。

 

麻を作るおばあさんの記録映像。

みなさん、一言も発せず、食い入るように見ています。

 

その村に数十年前まで麻で着物を作る人がいたのは、

趣味であるとか、信念であるとか、そういう事からではなく、

そうせざるをえない環境だったからです。

水を汲むにも、畑をするにも、煮炊きや洗濯にも、スイッチやエンジンで行うのではなかった時代に、

生業と家事労働をこなし、家族のために糸を作り、織ることが、

どんなに手間がかかり、大変であったことか、

私には実感さえできません。

 

貧しい農村では、『間引き』が行なわれました。

家族が生き抜くために、親が幼い子供を殺すのです。

それは、食べるものがないからだと思っていました。

 

でも、食べるものは、結構なんとかなるのだそうです。

着せてやれるものが用意できないから、殺さざるをえないというのです。

そんな時代がありました。

 

私たちは、お金で時間を買いました。

それで、いろいろなものを得ました。

暮らしぶりは、豊かになりました。

 

同時に、多くのものを手放してしまったかもしれません。

 

まだ霜も降りる、冷たい畑に立ち、おばあさんは、はだしの足で土をおこします。

長靴を履くと土が固くなってしまうから。

 

おばあさんがはだしで起こした畑から、

麻はすくすくと伸び、

さやさや揺れる、麻畑の中でニコニコ笑う、

おばあさんの顔はとても美しく、ピカピカと輝いて見えます。

 

おばあさんが、最後に織った麻の反物は、

おばあさんのお葬式に、息子さんが着るための、裃でした。

お母さんが、当たり前に、ご飯を作るように、家族のために作った、

それがこの国の、最後の布だったのかもしれません。

 

今、麻は栽培が禁じられています。

 

なぜ禁じられたのか、いろいろな事情があると思います。

でも忘れ去り、消し去ったのは、私たちの選択であることに、

他ならないと、思うのです。

 


お茶会に参加されたton-cara講師の東さんと飯塚さんもwebにアップされています。

やっぱり視点や写真が素晴らしいなあ、と思いますので、こちらも御覧ください。

 

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