碓氷製糸見学ツアー開催しました

碓氷製糸さんは、国内最大の生糸の製糸工場。

蚕絲館さんで20日間にわたっておこなわれた

養蚕ワークショップの打ち上げとして、

碓氷製糸さんを見学するツアーを開催しました。

せっかくなので、養蚕ワークショップに

参加されていない方にもむけて募集をしたところ

予想以上のご応募があり、多くの方が関心をよせている

産業であることを感じました。

 

解説の係の方が、案内をしてくれます。

碓氷製糸さんは、『碓氷製糸農業協同組合』という農協組織でしたが、

養蚕農家である組合員の減少や高齢化から、今年株式会社になりました。

 

県内外から運ばれてきた繭が、ここに集まります。

奥には各企業名が印字された繭の袋。

 

この袋にパンパンに詰めると、15kgになるそうです。

繭は『俵』で数えます。1俵はだいたい60kg。

いまは繭の収穫量も生産量も減って、

一日1俵も使わないそう。

 

運ばれてきた繭は、ここで熱風にかけ、乾燥させます。

この過程で、中の蛹は死んでしまいます。

 

二階へ続く、長い階段とベルトコンベアー。

繭倉庫に繭をはこぶものです。

 

選繭(せんけん)。悪い繭をチェックし取り除きます。

 

煮られた繭は、お蚕さんが吐き始めた

周りの部分の繊維『きびそ』をとってから製糸されます。

下は手作業による座繰りの動画。

どちらも同じ『みご箒』が使われています。

 

これは繭の小さい『小石丸』用。

 

『きびそ』です。きびそは漢字で書くと『生皮苧』。

生糸にはなりませんが、化粧品などに使われるそう。

この糸も織物に使うと面白い風合いのものができあがります。

 

生糸の製糸機械。富岡製糸とほぼ同型の機械が現役で稼働しています。

 

キビソ(繭のまわりの部分の繊維)をとった繭は箱に入れられ

グルグルと機械のまわりを回ります。

製糸の機械は、繭が薄くなったりして生糸が細くなると

レバーをピューと伸ばし箱の中から繭を補充します。

 

ここでは、だいたい7粒くらいの繭から生糸を引いています。

糸が細くなったりしたら、この黄色い箱から補充されます。

 

ちなみにこれは手回しの座繰り。

手作業による繭の補充はこういう感じです。

 

途中で糸が切れてしまった繭たちは、

回収されて、また最初からやり直し。

 

製糸された生糸は大枠にまき直し、『かせ』にします。

 

座繰りと養蚕の講師をしてくれている蚕絲館の東先生は、

座繰りをするために群馬に来て、碓氷製糸でしばらく働いていました。

『ここで夜、真っ暗な中、揚げ返しの練習してたんですよー』と聞いて、絶句。

見学してみると実感できると思いますが、

女子ひとり、ここで時を過ごすのは、こわいです。。。

東さんには絶句させられてばかりです。

 


かつて、生糸は日本の経済を支える大事な輸出品でした。

海外に出すクオリティの生糸を機械製糸により生産していたのですが、

昭和37年、生糸の輸入自由化により

生産量は激減。

現在、国内で流通している絹のうち

純国産は1%にもみたない状況です。

そして機械製糸の工場は、現在日本に2社のみとなっております。

 

 

解説の方が、『若い方を入れたくても、

彼らが定年を迎えるまでに

ここが存続しているという保証がもてない』と言っていたのが印象的でした。

 

 

ちなみに、碓氷製糸の詳細なリポートは、

すでに東先生のご主人が過去にアップしています。

あのツアーの中で、どうやってこんなに写真撮ったんだろう??

というくらい詳細なリポート!ぜひご覧ください。

こちらから

 

見学のあとは磯部簗さんでお食事会。

鮎御膳をいただきました。

 

東先生より養蚕ワークショップの修了証が手渡されました。

お疲れ様でした!

 


養蚕ワークショップ、9月は黄色い繭をつくる

『ぐんま黄金』を飼育します!

『ぐんま黄金』は今回とりかかったら

しばらくは育てないそうですよ。

ワークショップ期間中、このようなツアーも

開催したいと考えております。

ご興味ある方は、ぜひお問い合わせくださいませ!

詳細コチラ

 

お申込み・お問合せは

mail@ton-cara.com

 

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2017年春蚕・養蚕ワークショップはじまりました!

5/20より、2017年春蚕・養蚕ワークショップはじまりました!

 

蚕絲館さんが丹精込めて育てた桑畑!緑がきれいです。

 

午前中は桑摘み。

養蚕は東先生とご夫婦で蚕絲館を営む、平石先生もレクチャーします。

 

まずは一束。しっかり締められ、すぐにほどける紐のかけ方を実践。

きっと最終日にはスイスイでしょう。

 

バチンバチンと剪定ばさみの音がひびきます。

 

枝が太く、苦戦します。

これも最終日頃にはスイスイでしょう。

 

どんどんできてゆく桑の束

 

『桑摘み』という可愛らしい言葉で、

いいのでしょうか、この作業。。。

桑で人間が見えない。

『頭の上にのせると楽だよ』、と平石先生。

はじめての女子には厳しいデショウ。

これも終わり頃には、難なく頭上運搬をされているかもしれません。

 

本日分の桑がとれました!

 

運び込んだ桑の葉っぱをしごいてゆきます。

 

これから迎える小さなお蚕さんの為に桑を刻んでゆきます。

 

桑切の様子です。

レトロなマシンが素敵です。

 

そしてやってきました。安中市農協稚蚕飼育所。

3齢以前の小さなお蚕が育てられていた施設。

いまは稼働していませんが、ここで配蚕がおこなわれる、

という事でton-cara店主もヒョコヒョコついてきました。

 

チラッ。ぐんま200です。

 

特別に稚蚕飼育所の中も見せてくれました。

壁のむこうに、幼いお蚕を守るとてもクリーンな部屋があって

そこからお蚕はベルトコンベヤーで流れてき、ここで作業をしていたそうです。

 

お蚕さん、蚕絲館に到着!

 

蚕座に等分にむかえるため、手で分けてゆきます。

下にはこれまでお蚕のエサとなってきた

人工飼料とお蚕のフン。

 

蚕座に広げてゆきまーす。

 

網入れの作業。お蚕の上から網をかけます。

この上に桑をくれる事でお蚕が上ってきて、人工飼料から分離できます。

 

咲前神社の養蚕守護のお札が見守っています。

 

こまちは寝ています。

 

網の上から桑をやります。

 

もんじゃ焼きの土手を作る要領で。。。

 

眠いこまち。

 

こんな感じで桑をやります。

 

そうこうするうちに、稚蚕飼育所から『小石丸』が到着!

皇室で育てられている日本在来種のお蚕。

これはワークショップと別に

蚕絲館さんがご注文を受けて育てる分ですが、

同時に育てるので『ぐんま200』と見比べることができますよ!

『言われてみれば品があるわね!』と参加者の方。

言われてみれば、ぐんま200よりモジャモジャした動きがおとなしい気がします。

 

 

気が付くと、ぐんま200は人工飼料から

採れたての桑の葉へ移っています。

やっぱり新鮮な桑の方がおいしいかい?

桑を食む音がピチピチ聞こえます。

 

 


これより、6/12か13まで、養蚕作業!

このところ暑いから、参加者のみなさん気を付けて!

ton-caraではリポートと

ランチのサポートがんばりまーす。

 

 

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麻のお茶会、開催しました。

文字も残らない古い時代から、江戸時代に綿が普及するまで、

日本の長い歴史の中、圧倒的大多数の人々の身を包んできたのは、麻ー『大麻』でした。

 

千葉県君津市で染織伝承館『布衣風衣』を営む渡辺ご夫妻は、

失われてゆく日本の手仕事を何とか次世代に託したいという思いから

長年にわたり各地の日本の染織を取材し記録に取り、伝承活動をされています。

 

会津以北は、綿を育てるのが難しかったため、

東北地方では、自家用に麻を栽培し、糸を作り、織る村が

数十年前までありました。

越後上布などの材料になる『苧麻』は、換金作物として

諸藩は奨励したようです。

今、『麻』と言えば『苧麻』と『亜麻』を指します。

 

でも、土地の人たちが『麻』と呼んでいたのは、大麻でした

これは、藩に納めるためではなく、

自分や家族の身を包む、日々の着衣として作っていました。

 

渡辺ご夫妻は、おそらくその最後の時代のおばあさんにお願いし、

麻の種まきから織るまでを映像に収めました。

 

今はもう、どこにもない風景です。

その記録とともにお話頂きました。

 

麻の苧は、金色です。

この繊維をひたすら割き、ひたすら績(う)み、

糸にします。

何千メートルも、何万メートルも。

ひたすら手で、糸をつなげて行きます。

麻の糸を割いてつなげる作業を『績む』と言います。

『績む』作業と『紡ぐ』作業、ふたつあわせて

『紡績』です。

 

 

麻の糸。写真は布衣風衣にて撮影したものです。

 

麻の布の他に、いろんな古布を持ってきてくださいました。

上ふたつは大麻、

下の縞は芭蕉布。

 

これは『しな布』の米袋。しなの木の繊維で織られています。

強度を持たせるため、バイヤスに縫われています。

古い生活道具としての布は、バイヤス縫いになっているものがよくあるそうです。

そういえば、手ぬぐいを利用した『あずま袋』もそうですね。

 

 

上から、しなの米袋、祭礼に使われた馬の腹がけ、布団側生地。

 

対馬で出たという麻(大麻)の筒そで。

場所柄でしょうか、朝鮮半島の上衣に似ています。

 

麻を作るおばあさんの記録映像。

みなさん、一言も発せず、食い入るように見ています。

 

その村に数十年前まで麻で着物を作る人がいたのは、

趣味であるとか、信念であるとか、そういう事からではなく、

そうせざるをえない環境だったからです。

水を汲むにも、畑をするにも、煮炊きや洗濯にも、スイッチやエンジンで行うのではなかった時代に、

生業と家事労働をこなし、家族のために糸を作り、織ることが、

どんなに手間がかかり、大変であったことか、

私には実感さえできません。

 

貧しい農村では、『間引き』が行なわれました。

家族が生き抜くために、親が幼い子供を殺すのです。

それは、食べるものがないからだと思っていました。

 

でも、食べるものは、結構なんとかなるのだそうです。

着せてやれるものが用意できないから、殺さざるをえないというのです。

そんな時代がありました。

 

私たちは、お金で時間を買いました。

それで、いろいろなものを得ました。

暮らしぶりは、豊かになりました。

 

同時に、多くのものを手放してしまったかもしれません。

 

まだ霜も降りる、冷たい畑に立ち、おばあさんは、はだしの足で土をおこします。

長靴を履くと土が固くなってしまうから。

 

おばあさんがはだしで起こした畑から、

麻はすくすくと伸び、

さやさや揺れる、麻畑の中でニコニコ笑う、

おばあさんの顔はとても美しく、ピカピカと輝いて見えます。

 

おばあさんが、最後に織った麻の反物は、

おばあさんのお葬式に、息子さんが着るための、裃でした。

お母さんが、当たり前に、ご飯を作るように、家族のために作った、

それがこの国の、最後の布だったのかもしれません。

 

今、麻は栽培が禁じられています。

 

なぜ禁じられたのか、いろいろな事情があると思います。

でも忘れ去り、消し去ったのは、私たちの選択であることに、

他ならないと、思うのです。

 


お茶会に参加されたton-cara講師の東さんと飯塚さんもwebにアップされています。

やっぱり視点や写真が素晴らしいなあ、と思いますので、こちらも御覧ください。

 

蚕絲館ブログ

手織り おもとや instagram

 

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和ノ屋さんの味噌つくり

今日は和ノ屋さんの味噌つくり。

和ノ屋さんは甘楽町で自然農を営みお野菜を作っています。

土地と草木に愛情を込めて向かい合う和ノ屋さんの大豆。

力強い甘みがあります。

 

かまどは今日も大活躍。

 

大豆が蒸しあがりました。

 

ミンサーで挽いて、

 

スパゲッティのようになりました。

 

そしてこれは和ノ屋さんが育てた麴。

 

塩を加え、

 

まぜます。

すごい高速に見えますが、室内が暗いためです。。。

 

力一杯こねて?練って?みそ玉に。

 

カメの中にウリャー!と投げつけてゆき、いっぱいになりました。

 

塩で蓋をし、

 

さらに酒粕で蓋をします。

 

和ノ屋さんのお昼です。

素材の味を生かす、やさしい美味しさ。

 

お昼後には黒豆の味噌つくり。

これは昆布で蓋。富山のやり方だそう。

昆布のうまみが味噌に行き渡り、味噌の味が昆布にしみ、

お味噌ができる頃には、うまい飯の友になっているんですって。

 

お味噌が出来上がるのは3ヶ月後とのこと。

またお披露目してくれるそうです!

 

 

 

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咲前神社春祭り!

今日は咲前(さきさき)神社の春祭り。

てくてくと歩いてきたら、お神楽の音が。

お神楽、見たいー。いそげー。

お神楽は朝からずっとを奉納しているそう。

 

咲前神社は養蚕とかかわりの深い神社で、

絹笠様という神様のお社の前で、

東さんは毎年 座繰りの実演をされています。

 

根子石というそうです。繭に似た石をのせて願をかけるのだそう。

 

座繰りに、小学生の子たちも興味津々。

『中に虫入ってるの~?』

 

あ!焼きまんじゅう~!

群馬の縁日と言ったら、焼きまんじゅう。

自宅近くの神社はすっかり寂しくなり、屋台も来なくなりましたが、

ここ咲前神社は大勢の人や屋台でにぎわっています。

そういう風景を見ると、とてもうれしい。

 

神楽殿から、投げものが!

お菓子やお餅やだるまがばらまかれています。

盛り上がっている!

『おじいちゃーん、おじいちゃーん』

と投げものをねだる子供たちの熱いコールが。

こういう風景が残っているって、素敵だなあ。

私の胸も熱くなりました。

 

それにしても、盛り上がっている。

前は旅行なども当たったという、豪勢な投げもの。それは盛り上がりますね。

 

ちょっと離れたところから眺めつつ、

そういえば神社なのにお参りしてないわ、と神楽殿に背を向け

くるりと拝殿にむかってお参りしてたら

 

 

目の前にだるまが降ってきました。

あらまあ、やっぱりうれしい。

神様から頂いた気分。

もうひとつは、東さんがくれました。

 

わたし、ここでがんばります。

神様、だるまさん、見守っていてください。

 

 

 

 

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和綿のこと。

799年、ひとりのインド人の青年が三河の浜辺に漂着しました。

彼は携えていた一弦の琴を弾き、持ち物を売って家を建て、この国に住み着きました。

日本に初めて『綿』をもたらしたのは、この青年であったと伝えられています。

彼がもたらした綿の種は、紀伊・淡路・丹波・讃岐・伊予・土佐・太宰府に植えられました。

ただ、日本の気候にはあわなかったらしく、ほとんどが絶えてしまったようです。

 


 

綿花は乾季のカラリとした気候の中で実を著けます。

一年中多湿な気候で、また当時の地理的にも、なかなか難しかったのでしょうか、

この国に定着することはありませんでした。

 

状況がかわったのは戦国時代。

他国としのぎを削る中、麻よりも弾力性にすぐれ擦り切れにくい、綿の需要が高まりました。

中国においても、東アジアに適応した綿の品種改良に成功したらしく、 それが日本にもたらされました。

やがて開かれた江戸幕府は、綿の栽培を奨励し、綿は会津以北を除く日本の各地で作られるようになりました。

江戸幕府の農政事業と、綿の普及は、人口の増大を後押ししました。 

 

しかし明治に入ると、綿に対する関税が撤廃され、 安価な綿が大量に流入し、日本の綿は姿を消して行きました。 あれほど苦労して日本に根付かせたのに今はもう、誰の身を包むこともありません。 

古老はふつうに『わた』と呼んでいましたが、輸入された洋綿が当たり前になり、

 

それと区別して、日本の綿は『和綿』と今は呼ばれています

ところで、1200年前にインドの青年がもたらした綿の種ですが、一説には絶えてしまったと言われております。

でも、こんな言い伝えがあります。

三河の国に住み着いたその青年は、その土地で、親しく栽培の方法を教えました。

土地の人々は、種を絶やさないよう、大切に栽培の法を伝えました。

今、その地に伝わる小ぶりの綿が、インドの青年がもたらした綿の末裔だと言われているそうです。

青年が住んだ所には、現在『天竹神社(てんじくじんじゃ)』が建っております。

その神社に『宝壺』とよばれる古い甕が伝わっており、近世に入りその甕をあけてみたところ、

その中には、古い古い綿の種が大切に収められていたそうです。

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